新・五井先生掲示板_老子講義

志の無いもの入るべからず



カテゴリ:[ なんでもフリートーク ]


89件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。


[89] 老子講義P044

投稿者: ひぐひぐ 投稿日:2018年 9月16日(日)22時28分33秒 zaq771a1e75.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

老子講義P044

 多言なれば数窮す。中を守るに如かず。

 天地はそのように無限の力をもっていて、出せばいくらでもその力が出るが、その力は常に宇宙
の法則に乗って出されているのであり、やたらに出せるだけ出しているというようなものではない。
ところが人間は、自分に少しでも力があると、それをやたらに出してみたくなる。一寸知ったこと
でも、誰彼なしに、その知識を発表しようとする。そのように多言の行為をしていると、しば
しば自らを窮地に陥れてしまう。そんなおしゃべりな生き方はあまり感心したものでない。だから、
天地のように計り知れない力をもちながら、その場、その時々に即応した力を出してゆくようにし
なければいけない。つまり中庸の道を守って生きてゆかなければいけない。
 と老子はこう云っているのであります。老子のこの中を守るということは、実にむずかしいこと
でありまして、中を守れる人間などというものは滅多にいるものではありません。尤も老子の説い
ているのは、いつも聖人は、といって、聖人相手の説法なのですから、老子の説法を一般の人にそ
のまま直訳して判らせようとしても、どだいそのことそのものが無理なのであります。私はそこで、
老子に至る道、聖人に至る優しい道を説きつづけているわけなのであります。
----------------------------------------------------------------------------------------
 天地はそのように無限の力をもっていて、出せばいくらでもその力が出るが、その力は常に宇宙
の法則に乗って出されているのであり、やたらに出せるだけ出しているというようなものではない。
ところが人間は、自分に少しでも力があると、それをやたらに出してみたくなる。一寸知ったこと
でも、誰彼なしに、その知識を発表しようとする。そのように多言の行為をしていると、しば
しば自らを窮地に陥れてしまう。そんなおしゃべりな生き方はあまり感心したものでない。だから、
天地のように計り知れない力をもちながら、その場、その時々に即応した力を出してゆくようにし
なければいけない。つまり中庸の道を守って生きてゆかなければいけない。
----------------------------------------------------------------------------------------
 天地はそのように無限の力をもっていて、出せばいくらでもその力が出るが、その力は常に宇宙
の法則に乗って出されているのであり、
やたら出していいものではない。
----------------------------------------------------------------------------------------
 と老子はこう云っているのであります。老子のこの中を守るということは、実にむずかしいこと
でありまして、中を守れる人間などというものは滅多にいるものではありません。尤も老子の説い
ているのは、いつも聖人は、といって、聖人相手の説法なのですから、老子の説法を一般の人にそ
のまま直訳して判らせようとしても、どだいそのことそのものが無理なのであります。私はそこで、
老子に至る道、聖人に至る優しい道を説きつづけているわけなのであります。
----------------------------------------------------------------------------------------
老子講義は聖人に説いた教えです。




[88] 老子講義P043

投稿者: ひぐひぐ 投稿日:2018年 9月16日(日)16時57分41秒 zaq771a1e75.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

老子講義P043

 天地の間は、其れ猶?籥んぽごときか。虚にして屈せず。動いて愈出ず。

 ?籥というのは、鍛冶屋のつかうふいごのことで、天地の間は丁度このふいごのようなもので。
ふいごは中が空っぽの箱であって、動かせば動かす程中から風が出てくる。中が空っぽなのに、風
がつきることなく出てくる。天地の間の道というのも、そのようなもので、空のように虚のように
みえるけれども、その力はつきることもないし、出せばどれ程の力のあるものか計り知れない。
 天地の力は実に無限である。というのであります。
----------------------------------------------------------------------------------------
天地の力は実に無限である。というのであります。
ですので、今朝夕聴いている天地の声は無限なんです。



[87] 老子講義P042

投稿者: ひぐひぐ 投稿日:2018年 9月16日(日)16時24分9秒 zaq771a1e75.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

老子講義P042

 そこで聖人というのは、どういう生き方をしているかと申しますと、天地の在り方と同じように、
自己の我の想いで、人々に兎や角とお節介をするのではなく、自然のままに、自己が動いているの
であります。ですから、百姓があくせく働いて苦しんでいるのを見ても、自然のみ心が自己を動
かさなければ、そのまま動かずにいるのです。そうした姿を凡夫がみれば、不仁の姿に見えること
でありましょう。
 聖人には全ての人の生きてゆくべき道筋が見えていまして、各人各人の業生を果させながら、
真実の神のみ心をその人々に知らせ、悟らせる天命を持っているのであります。
 宇宙法則の運動から外れている人々を、その軌道を外れたままの状態で、その場その場の苦しみ
を救ってやっていても、とてもいつまでも経っても真の救われに達しない。だから各人がその置かれ
た立場立場で、自然と業生から抜け出せるように、本心開発の教えをするのが聖人の存在する価値
となるのです。
 聖人自らは、自らの想念を空にし、無為の生き方の中で、自然法爾的に、人々に接してゆくわけ
です。自然法爾の生き方の中には、宇宙神のみ心が輝きわたっているのですから、聖人が生きてい
ることそのものが、人々のプラスになるのであります。
 一見して不仁のように見える生き方の奥底には、大きな仁の姿が輝いているのです。
-----------------------------------------------------------------------------------------
そこで聖人というのは、どういう生き方をしているかと申しますと、天地の在り方と同じように、
自己の我の想いで、人々に兎や角とお節介をするのではなく、自然のままに、自己が動いているの
であります。ですから、百姓があくせく働いて苦しんでいるのを見ても、自然のみ心が自己を動
かさなければ、そのまま動かずにいるのです。そうした姿を凡夫がみれば、不仁の姿に見えること
でありましょう。
-----------------------------------------------------------------------------------------
自然のままにしているので、あります。
-----------------------------------------------------------------------------------------
 聖人には全ての人の生きてゆくべき道筋が見えていまして、各人各人の業生を果させながら、
真実の神のみ心をその人々に知らせ、悟らせる天命を持っているのであります。
-----------------------------------------------------------------------------------------
ですので、
各人各人の業生を果させながら、
真実の神のみ心をその人々に知らせ、悟らせる天命を持っているので
あります。
-----------------------------------------------------------------------------------------
 宇宙法則の運動から外れている人々を、その軌道を外れたままの状態で、その場その場の苦しみ
を救ってやっていても、とてもいつまでも経っても真の救われに達しない。だから各人がその置かれ
た立場立場で、自然と業生から抜け出せるように、本心開発の教えをするのが聖人の存在する価値
となるのです。
-----------------------------------------------------------------------------------------
ですので
自然と業生から抜け出せるように、本心開発の教えをするのが聖人の存在する価値
となるのです。
-----------------------------------------------------------------------------------------
 聖人自らは、自らの想念を空にし、無為の生き方の中で、自然法爾的に、人々に接してゆくわけ
です。自然法爾の生き方の中には、宇宙神のみ心が輝きわたっているのですから、聖人が生きてい
ることそのものが、人々のプラスになるのであります。
-----------------------------------------------------------------------------------------
無為の生き方の中で、自然法爾的に、人々に接して
ゆくわけです。
聖人が生きていることそのものが、人々のプラスになる
のであります。
-----------------------------------------------------------------------------------------
 一見して不仁のように見える生き方の奥底には、大きな仁の姿が輝いているのです。
-----------------------------------------------------------------------------------------
不仁のように見える生き方の奥底には、大きな仁の姿が輝いているのです。
-----------------------------------------------------------------------------------------



[86] 老子講義P041

投稿者: ひぐひぐ 投稿日:2018年 9月16日(日)14時05分13秒 zaq771a1e75.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

老子講義P041

 全く、天地に自我の想いがあって、自己の好き好みによって、万物に処するとしたら、これは大
変なことになってしまいます。雨が降るも風が吹くも、天地そのものの心がするのではなく、すべ
て自然の法則によって行われてゆくのであります。この自然の法則というものは人類にも当然当て
はまってゆくのでありまして、憎めば憎まれる、叩けば叩かれる、というように、自ら発する想
念波動が他の同様の波動と交流して、自らに同じような事柄となってかえってくるのであります。
 ですから、自分の運命はすべて自分でつくり出すものであって、自分の不愚を他の人の所為にし
てしまったりすることは実に愚かしいことなのです。
 自己が如何に他の人の為に尽くしているように見えても、その行為をその人が喜んでくれぬ場
合は、その行為がまだ真実その人の為を思ってしているのではないか、或は、自分がその人に、
過去背から余程の借り分があった場合なので、ますますその人の為に尽くすか、その人の天命
の完うされることを祈ってやるかすることが大事なのであります。また人類そのものの運命でも、
人類そのものの想念が、人類の運命を作っているので、天変地異なども、人類の想念波動によっ
て起こされるものなのです。
そのように、宇宙の法則や、想念波動の定まりというものは、どうにもならぬものなので、自己
の運命を直そうとするならば、宇宙の法則に自己の想念波動を乗せてゆかねばならないのです。宇
宙神のみ心のひびきに、自己の想念波動を合致させてゆくことが、宇宙の法則の軌道に乗るというこ
となのであります。
---------------------------------------------------------------------------------------
過去背から余程の借り分があった場合なので、ますますその人の為に尽くすか、その人の天命
の完うされることを祈ってやるかすることが大事なのであります。
---------------------------------------------------------------------------------------
また人類そのものの運命でも、
人類そのものの想念が、人類の運命を作っているので、天変地異なども、人類の想念波動によっ
て起こされるものなのです。
---------------------------------------------------------------------------------------
そのように、宇宙の法則や、想念波動の定まりというものは、どうにもならぬものなので、自己
の運命を直そうとするならば、宇宙の法則に自己の想念波動を乗せてゆかねばならないのです。宇
宙神のみ心のひびきに、自己の想念波動を合致させてゆくことが、宇宙の法則の軌道に乗るというこ
となのであります。



[85] 老子講義P040

投稿者: ひぐひぐ 投稿日:2018年 9月16日(日)13時58分44秒 zaq771a1e75.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

老子講義P040

 天地は自己の意図をもって、ああだ、こうだと理論立てて、万物を生かしておるものではなく、
自然の動きそのままに、万物を生かしたり、殺したりしているのである。だから仁たらんという想
いをもって運行されているわけではなく、万物を芻狗(芻狗というにおは、草を結んで犬の形にしたもの
で、神を祭る時に供えたものです。この芻狗は神を祭る場合には、きわめて丁寧に取扱われるが、祭が終わって
しまえば、用済みになって、路端に打ち捨てられてしまうのです。)のように扱っているのである。そのさ
まは恰も、不仁の在り方のようにみえるのであります。その天地と同じように、聖人も自ら手を差し伸べ
伸べて、百姓を救おうとはせず、自然のままに打棄ておく、その態度は仁とはみえぬ。不仁そのも
のの態度である。というが、この説の表面的にみた大意ですが、この言葉の奥にある老子の教え
は、天地はいちいち人間の頼みに応えて、万物を生かしたり殺したりしているのではない。自然の
法則の下に、その法則のままに天地の力は運行されているのである。天地そのものに何等かの意図
があり、自我意識があって、宇宙の運行にたずさわっていたら、宇宙神の総体的な活動の線から漏
れてしまって、法則を乱してしまう。宇宙の法則を乱してしまったら。すべてのものの統一が乱れ
てしまって、この世界は基本滅茶滅茶になってしまい、、かえって万物の存在を危うくしてしまうのであ
る。だから天地そのものには、宇宙神の心から離れた勝手な情愛などはしない方がよいのである、と
いうのです。
-----------------------------------------------------------------------------------------------
 天地は自己の意図をもって、ああだ、こうだと理論立てて、万物を生かしておるものではなく、
自然の動きそのままに、万物を生かしたり、殺したりしているのである。だから仁たらんという想
いをもって運行されているわけではなく、万物を芻狗(芻狗というにおは、草を結んで犬の形にしたもの
で、神を祭る時に供えたものです。この芻狗は神を祭る場合には、きわめて丁寧に取扱われるが、祭が終わって
しまえば、用済みになって、路端に打ち捨てられてしまうのです。)のように扱っているのである。
-----------------------------------------------------------------------------------------------
ああだ、こうだと理論立てて、万物を生かしておるものではなく
用済みになって、路端に打ち捨てられてしまうのです。)のように扱っているのである。
-----------------------------------------------------------------------------------------------
そのさ
まは恰も、不仁の在り方のようにみえるのであります。その天地と同じように、聖人も自ら手を差し伸べ
伸べて、百姓を救おうとはせず、自然のままに打棄ておく、その態度は仁とはみえぬ。不仁そのも
のの態度である。というが、この説の表面的にみた大意ですが、この言葉の奥にある老子の教え
は、天地はいちいち人間の頼みに応えて、万物を生かしたり殺したりしているのではない。
-----------------------------------------------------------------------------------------------
天地はいちいち人間の頼みに応えて、万物を生かしたり殺したりしているのではない。
というのです。
-----------------------------------------------------------------------------------------------
自然の
法則の下に、その法則のままに天地の力は運行されているのである。天地そのものに何等かの意図
があり、自我意識があって、宇宙の運行にたずさわっていたら、宇宙神の総体的な活動の線から漏
れてしまって、法則を乱してしまう。宇宙の法則を乱してしまったら。すべてのものの統一が乱れ
てしまって、この世界は基本滅茶滅茶になってしまい、、かえって万物の存在を危うくしてしまうのであ
る。だから天地そのものには、宇宙神の心から離れた勝手な情愛などはしない方がよいのである、と
いうのです。
-----------------------------------------------------------------------------------------------
だから天地そのものには、宇宙神の心から離れた勝手な情愛などはしない方がよいのである、と
いうのです。
-----------------------------------------------------------------------------------------------



[84] 老子講義P039

投稿者: ひぐひぐ 投稿日:2018年 9月16日(日)13時48分31秒 zaq771a1e75.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

老子講義P039
  第四講 天地は不仁なり・・・

 天地不仁。 以万物為芻狗。 聖人不仁。 以百姓為芻狗。 天地之間
 其猶?籥乎。 虚而不屈。 動而愈出。 多言数窮。 不如守中。

  [読み方]
  天地は不仁なり。万物を以て芻狗と為す。聖人は不仁なり。百姓を以て芻狗を為す。
 天地の間は、其れ猶?籥んぽごときか。虚にして屈せず。動いて愈出ず。多言なれば数窮
す。中を守るに如かず。

 天地は不仁なり。万物を以て芻狗と為す。聖人は不仁なり。百姓を以て芻狗を為す。



[83] 老子講義P037

投稿者: ひぐひぐ 投稿日:2018年 9月16日(日)13時47分12秒 zaq771a1e75.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

老子講義P037

 そのように道はすべての根源である、というのが、老子の言葉なのです。あらゆる事業あらゆる
事物に先立って道があったと、いうことは、道即ち絶対者(宇宙神)のみ心であり、宇宙神のみ心、
み働き、それが道であるのでして、宇宙の運行のすべてが、その道に乗って動いているのであります。
 そうした、宇宙の運行は、宇宙神の大叡智によって運行されておるのでありますが、この宇宙神の
み心は、宇宙神そのものの直接の働きとしてなされるのではなく、各大神そして、その大神の各系
統の神々神霊によって、運営されているのであります。
 日本の古事記に出てくる神々のみ名は、みな、そうした働きにつけられた名なのでありますし、
人格的にみれば、人格的な神としても現われているのであります。
 中国でいう天帝なども、宇宙神の一つの働きにつけた名でありまして、絶対者という意味ではな
いのです。そこで、老子は、道は帝の先にすでに存在したと云っているのであります。そして、老
子も、道と共に生まれ出でた、絶対者であったのです。
 ですから、老子を、この世に赤子として生れ出でて、種々と修行をして、悟道に入った人のように
解釈しようとしましても、何等そうした老子に対する事蹟的なものが皆無なのであります。
 釈迦やキリストでも、孔子でも、有名な聖者たちは、その多少にかかわらず、種々の生い立ち
の記的なものや、たどってきた足蹟が語り残されたり、書き残されたりしているものです。
 ところが老子に限って、一つとして筋の通った歴史的な物語りはないのです。どうしてそういう
ことになっているのでしょう。老子という人は、普通の人のように肉体身の両親の下から生まれた肉
体人間ではなくして、はじめから霊体の人であって、時により場所によって、突如として出現し得
る神人であったのです。私の内部で、老子は自らそう語っているのです。
 ですから、老子が吾は道なり、と云っても無理のないことであって、歴史的に肉体人間として
生まれた釈尊が、我は最勝最智の仏なり、と云いきっているのをみれば、勿論当然なことなの
であります。
 私は前にも申しましたが、私の働きの中に老子が突然合体してくるまでは、老子の本などまるで
読んでいなかったのですが、老子が合体してきてからは、老子そのものの在り方が、実にはっきり
とよく判ってきているのであります。世に不思議なことというものは数多くあるのでありまして、
自己が納得しないからといって、その不思議を否定し切ることはとても出来ないことである、と改
めて思ってみるのです。そういう私なども、唯物的な目から見れば不可思議なる存在者の一人な
のでありましょう。
------------------------------------------------------------------------------------------
 そのように道はすべての根源である、というのが、老子の言葉なのです。あらゆる事業あらゆる
事物に先立って道があったと、いうことは、道即ち絶対者(宇宙神)のみ心であり、宇宙神のみ心、
み働き、それが道であるのでして、宇宙の運行のすべてが、その道に乗って動いているのであります。
 そうした、宇宙の運行は、宇宙神の大叡智によって運行されておるのでありますが、この宇宙神の
み心は、宇宙神そのものの直接の働きとしてなされるのではなく、各大神そして、その大神の各系
統の神々神霊によって、運営されているのであります。
-------------------------------------------------------------------------------------------
ですので、宇宙神の働きを運営するには、
大日如来とか、地球霊王とかそれぞれ、
宇宙の運航には必要なんです。
-------------------------------------------------------------------------------------------
 日本の古事記に出てくる神々のみ名は、みな、そうした働きにつけられた名なのでありますし、
人格的にみれば、人格的な神としても現われているのであります。
-------------------------------------------------------------------------------------------
天照大御神とかもそうですね。
-------------------------------------------------------------------------------------------
 中国でいう天帝なども、宇宙神の一つの働きにつけた名でありまして、絶対者という意味ではな
いのです。そこで、老子は、道は帝の先にすでに存在したと云っているのであります。そして、老
子も、道と共に生まれ出でた、絶対者であったのです。
-------------------------------------------------------------------------------------------
老子は道と共に生まれ出でた、絶対者であったのです。
-------------------------------------------------------------------------------------------
 ですから、老子を、この世に赤子として生れ出でて、種々と修行をして、悟道に入った人のように
解釈しようとしましても、何等そうした老子に対する事蹟的なものが皆無なのであります。
-------------------------------------------------------------------------------------------
老子が霊人ですから肉体を持たず、産まれて来た人ですから。
-------------------------------------------------------------------------------------------
 釈迦やキリストでも、孔子でも、有名な聖者たちは、その多少にかかわらず、種々の生い立ち
の記的なものや、たどってきた足蹟が語り残されたり、書き残されたりしているものです。
 ところが老子に限って、一つとして筋の通った歴史的な物語りはないのです。どうしてそういう
ことになっているのでしょう。老子という人は、普通の人のように肉体身の両親の下から生まれた肉
体人間ではなくして、はじめから霊体の人であって、時により場所によって、突如として出現し得
る神人であったのです。私の内部で、老子は自らそう語っているのです。
 ですから、老子が吾は道なり、と云っても無理のないことであって、歴史的に肉体人間として
生まれた釈尊が、我は最勝最智の仏なり、と云いきっているのをみれば、勿論当然なことなの
であります。
-------------------------------------------------------------------------------------------
ですので、肉体を持たないで産まれた聖者なんです。
-------------------------------------------------------------------------------------------
 私は前にも申しましたが、私の働きの中に老子が突然合体してくるまでは、老子の本などまるで
読んでいなかったのですが、老子が合体してきてからは、老子そのものの在り方が、実にはっきり
とよく判ってきているのであります。世に不思議なことというものは数多くあるのでありまして、
自己が納得しないからといって、その不思議を否定し切ることはとても出来ないことである、と改
めて思ってみるのです。そういう私なども、唯物的な目から見れば不可思議なる存在者の一人な
のでありましょう。
-------------------------------------------------------------------------------------------
霊能で知ることも、あるんです、宗教は哲学ではないんです。



[82] 老子講義P035

投稿者: ひぐひぐ 投稿日:2018年 9月16日(日)13時18分41秒 zaq771a1e75.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

老子講義P035

 吾、誰の子たるを知らず。帝の先に象たり。

 この節で、老子は道のことを吾と云っております。うっかりすると、吾という言葉を道のことの
みを伝っているように解釈してしまいますが、それなら、道は誰の子ならむ、とか、道は誰の子な
るかを知らず、という筈なのですが、道と云わずに吾7と云っているのであります。
 何故、道を吾と云ったのでありましょうか、このところが、老子の物凄さなのであります。老子
は、私が前にも書いた中で、永遠の生命の現われそのものの人である、と云っておりますが、実に
老子は、永遠の生命そのものの代表者として現われた人であるのです。ですから、この章でも、自
己を道そのものと一つにして説いているのであります。それが、道と云うところを、吾と云わしめ
たのであります。
 我れは神と一つのものなり、ということなのであります。この確信、否、確信などという言葉は
老子には不必要です。信などという心よりももっと根本である、当然のことなのであります。
 老子にとって、道とは、自己自らなのであって、自らが神の大生命に全く一つになりきっている存
在者なのであります。
 その当然の心が、道を吾と云ったのであり、吾、誰の子たるを知らず、と云って、神そのもの
であり、絶対者そのものの現われである。と云っているのであります。そうなると、その頃の帝の
先に象たり、という言葉も当然そうあるべきなのであります。
 帝とはここで天帝の意味であります。天帝とは、中国でいう、天の中心者の事でありますが、
その天の中心者として在るものより先にあるのが、吾であり、道である、というのですから、老子
の凄さが知れるでありましょう。
-----------------------------------------------------------------------------------------

 この節で、老子は道のことを吾と云っております。うっかりすると、吾という言葉を道のことの
みを伝っているように解釈してしまいますが、それなら、道は誰の子ならむ、とか、道は誰の子な
るかを知らず、という筈なのですが、道と云わずに吾7と云っているのであります。
 何故、道を吾と云ったのでありましょうか、このところが、老子の物凄さなのであります。老子
は、私が前にも書いた中で、永遠の生命の現われそのものの人である、と云っておりますが、実に
老子は、永遠の生命そのものの代表者として現われた人であるのです。ですから、この章でも、自
己を道そのものと一つにして説いているのであります。それが、道と云うところを、吾と云わしめ
たのであります。
----------------------------------------------------------------------------------------
公園さんから、聴きましたが老子は今太陽系完成の為に動いているらしいです。

 我れは神と一つのものなり、ということなのであります。この確信、否、確信などという言葉は
老子には不必要です。信などという心よりももっと根本である、当然のことなのであります。
 老子にとって、道とは、自己自らなのであって、自らが神の大生命に全く一つになりきっている存
在者なのであります。

老子
や如来は大生命と一体になっています。
あと、観音菩薩も
開祖様は、観音菩薩みたいなものです。
観音菩薩は次の如来が出来上がるまで、
自分が如来の地位にいたら、大変だろうと
菩薩の地位に降りた、徳の高い菩薩です。

開祖様も如来です、元首という時は如来で
親様と言う時は菩薩です。

 我れは神と一つのものなり、ということなのであります。この確信、否、確信などという言葉は
老子には不必要です。信などという心よりももっと根本である、当然のことなのであります。
 老子にとって、道とは、自己自らなのであって、自らが神の大生命に全く一つになりきっている存
在者なのであります。
-------------------------------------------------------------------------------------------
これは、老子だから赦されるんです。

 その当然の心が、道を吾と云ったのであり、吾、誰の子たるを知らず、と云って、神そのもの
であり、絶対者そのものの現われである。と云っているのであります。そうなると、その頃の帝の
先に象たり、という言葉も当然そうあるべきなのであります。
 帝とはここで天帝の意味であります。天帝とは、中国でいう、天の中心者の事でありますが、
その天の中心者として在るものより先にあるのが、吾であり、道である、というのですから、老子
の凄さが知れるでありましょう。
-------------------------------------------------------------------------------------------
これは、老子だから赦されるんです。



[81] 老子講義P034

投稿者: ひぐひぐ 投稿日:2018年 9月16日(日)12時54分45秒 zaq771a1e75.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

老子講義P034

 道とは神の生命の働きそのものであり、すべてがその中にあり、すべてを容れ得る無限大の心で
あるのですから、何人といえども容易に入り得ないような道などというものは決してないのであり
ます。ですから、道というものは人が押しつけるものではなく、すでにその道に乗っていることを、
各人に知らせさえすればよいわけなのであります。
 人間というものは、誰も彼も等しく神の子であり、神の分生命でありまして、生命そのもの
に変りがあるわけはないのです。それが、この人生では、高下優劣があることになってしまってい
ます。何が、人々に高下優劣という区別をつけさせたのでありましょうか、それは神から分かれてき
ている生命そのものがしたのでもされたものでもないのであります。
 すべてそれは、人々の想念の波動によるのであります。自己の生命の働きを妨げるのも想念なら、
他の生命の働きを妨げるのも想念なのであります。ですから私は常にすべての想念を祈りによって
神のみ心にお還えしして、神の分生命そのものになって、この世での生命を完うしようと云いつづ
けているのであります。
 そうした真理を、実によく体験しているのが、我が老子なのであります。
 そこで、最後の説明にうつりますが、実にこの言葉の素晴らしさというか、凄さというか、老
子の面目躍如たるものがあります。
--------------------------------------------------------------------------------------------
 道とは神の生命の働きそのものであり、すべてがその中にあり、すべてを容れ得る無限大の心で
あるのですから、何人といえども容易に入り得ないような道などというものは決してないのであり
ます。ですから、道というものは人が押しつけるものではなく、すでにその道に乗っていることを、
各人に知らせさえすればよいわけなのであります。
ですので、
統一と世界平和の祈りをされてない方は道に乗っていないんです。

 人間というものは、誰も彼も等しく神の子であり、神の分生命でありまして、生命そのもの
に変りがあるわけはないのです。それが、この人生では、高下優劣があることになってしまってい
ます。何が、人々に高下優劣という区別をつけさせたのでありましょうか、それは神から分かれてき
ている生命そのものがしたのでもされたものでもないのであります。
ですので、
この辺は余り気にせず、自分の天命を完うすることが大切です。

ですので、
すべてそれは、人々の想念の波動によるのであります。自己の生命の働きを妨げるのも想念なら、
他の生命の働きを妨げるのも想念なのであります。ですから私は常にすべての想念を祈りによって
神のみ心にお還えしして、神の分生命そのものになって、この世での生命を完うしようと云いつづ
けているのであります。
 そうした真理を、実によく体験しているのが、我が老子なのであります。
 そこで、最後の説明にうつりますが、実にこの言葉の素晴らしさというか、凄さというか、老
子の面目躍如たるものがあります。
とあるように、全ては祈りなのです。



[80] 老子講義P033

投稿者: ひぐひぐ 投稿日:2018年 9月16日(日)12時40分38秒 zaq771a1e75.zaq.ne.jp  通報   返信・引用

老子講義P033

  其の鋭を挫き、其の紛を解く、其の光を和し、其の塵に同ず。

 其の鋭を挫き、というのは、道を治めた者は、自己の才智や能力を、あらわに出さずに、自己の
鋭さを見せぬようにして、それでいて、種々な紛争や、出来事を、糸をとくように解決してゆかな
ければならない。その為には、自己の神の光明に輝いていても、その光明をやたらに人々に当てる
のではなく、その人のその人に応じた光にして対応しなければいけない。即ち柔かい和やかな調和
した光明を常に心身から放射するようにして、どんな塵の中にいるような汚れた人々とでも、同じ
ような立場に立って和してゆかなければいけないという、つまり和光塵の教えが説かれているの
であります。
 私なども、同信の古い人たちによく云うのですが、自分が判っているからといって、教えを乞い
にくる人を下目にみたり、押しつけがましい説教をしては、絶対ならない。いつも相手の立場や、
相手の心になってあげて、深いおもいやりの心で、新しい人々に接しなければいけない。道を求め
てくる人は、はじめから道そのものを求める形では来ないで、現象の利害関係だけを表面にしてく
る場合もあるのだけれど、その奥の心では、道を求めてきているのだから、表面に現れている現
象の利害関係のことにも耳を傾けてやらなければいけない、というのであります。
 或る一つの道から悟りに入った人は、その道だけを人々に押しつけようとしますが、人に押しつ
けがましくした場合には、その道はもうすでに真の道ではなくなっているのです。何故なれば、そ
の道は相手にとって、甚だ迷惑な窮屈なものであり、想いがその道に反抗するようになるからであ
ります。
----------------------------------------------------------------------------------------
私なども、同信の古い人たちによく云うのですが、自分が判っているからといって、教えを乞い
にくる人を下目にみたり、押しつけがましい説教をしては、絶対ならない。いつも相手の立場や、
相手の心になってあげて、深いおもいやりの心で、新しい人々に接しなければいけない。道を求め
てくる人は、はじめから道そのものを求める形では来ないで、現象の利害関係だけを表面にしてく
る場合もあるのだけれど、その奥の心では、道を求めてきているのだから、表面に現れている現
象の利害関係のことにも耳を傾けてやらなければいけない、というのであります。
 或る一つの道から悟りに入った人は、その道だけを人々に押しつけようとしますが、人に押しつ
けがましくした場合には、その道はもうすでに真の道ではなくなっているのです。何故なれば、そ
の道は相手にとって、甚だ迷惑な窮屈なものであり、想いがその道に反抗するようになるからであ
ります。
 この辺が昌美先生と五井先生の違いなんだよな。
五井先生はかんで含むように教えた、
昌美先生は初めてでも関係なく、教壇の上でヒステリックに怒鳴りちらした。
だからこの人についていくと狂わされると思い風さんに白光したくないと言った。
-----------------------------------------------------------------------------------------
まず、現象を治してあげることも大切なんです。
そのうち、行じて行くうちに理解する場合もあるんだから、



レンタル掲示板
89件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。

お知らせ · よくある質問(FAQ) · お問合せ窓口 · teacup.レンタル掲示板

© GMO Media, Inc.